六角家の読み方・歴史・系譜を解説|公家の子爵家と高家・士族の違い【2026年版】
「六角家」は「ろっかくけ」と読みます。日本史における六角家を調べると、公家の家系、明治時代の子爵家、江戸幕府に仕えた高家、そして士族という異なる身分や系譜が登場します。同じ名字でありながら、なぜ家柄や歴史的な役割が異なるのでしょうか。
その答えは、六角家という名称が、異なる祖先と成立事情を持つ複数の家に用いられてきたことにあります。代表的なのは、藤原北家中御門流・園家庶流の公家系六角家と、藤原北家日野流・烏丸家庶流の高家系六角家です。前者は明治時代に子爵を授けられた華族の家、後者は江戸幕府の儀礼を担い、明治維新後には士族に編入された家でした。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 読み方:六角家は「ろっかくけ」。歴史上、異なる系統の家を指す名称として使われます。
- 公家・華族の六角家:藤原北家中御門流の園家庶流で、1884年(明治17年)に六角博通が子爵を授けられました。
- 高家・士族の六角家:藤原北家日野流の烏丸家庶流で、江戸幕府の儀礼を担い、明治維新後は士族となりました。
【基本知識】六角家の読み方と、同じ名字が複数の家を指す理由
六角家の読み方は「ろっかくけ」です。家系や歴史を扱う文章では「六角氏(ろっかくし)」という表記も見られますが、「家」は家系や家の継承を、「氏」は一族や歴史上の氏族を表す文脈で用いられることがあります。
ただし、六角という名字だけでは、どの家系に属するのかを判断できません。公家の六角家と高家の六角家は、いずれも藤原氏北家につながる系統として整理されますが、直接の家系は異なります。
「公家」「高家」「華族」「士族」は何が違うのか
系譜を読み解くには、家の出自と、その時代に属していた身分・制度を区別する必要があります。
公家は、朝廷に仕えた貴族層です。公家の家々には家格があり、六角家の公家系統は「羽林家」に分類されます。羽林家は公家の家格の一つで、近衛府の官職などと関係の深い家々を含みました。
高家(こうけ)は、江戸幕府において朝廷との交渉や儀礼、典礼などを担った家およびその役職を指します。公家そのものと同じ意味ではなく、幕府の制度の中で特別な役割を果たした家々です。
華族は、明治時代に設けられた身分制度上の区分です。1884年(明治17年)の華族令によって、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五爵制が整えられました。一方、士族は、明治維新後の身分区分で、旧武士層などが編入された区分です。
つまり、「公家」は朝廷に仕えた家の歴史的な位置づけ、「高家」は江戸幕府の役割、「子爵」は近代の爵位、「士族」は明治期の身分区分です。それぞれ意味が異なるため、同じ六角家という名前に複数の呼称が付いていても矛盾はありません。

【系譜を比較】園家庶流の公家・子爵家と烏丸家庶流の高家・士族
六角家の系統の違いを理解するうえで、最初に確認したいのは、どの家から分かれたのかという点です。公家・華族の六角家は園家の系譜に位置し、高家・士族の六角家は烏丸家の系譜に位置します。
公卿の系図や近世の武家系譜を整理した記録では、それぞれの祖先、家の成立、官職や爵位が別々に記されています。両家を一つの直系家系としてつなぐのではなく、別々の家として追うことが重要です。
| 比較項目 | 公家・華族の六角家 | 高家・士族の六角家 |
|---|---|---|
| 系譜 | 藤原北家中御門流・園家庶流 | 藤原北家日野流・烏丸家庶流 |
| 成立の中心人物 | 波多基維と、その後継者の六角益通 | 烏丸光広の子・六角広賢 |
| 主な歴史的な位置づけ | 朝廷に仕える公家 | 江戸幕府に仕える高家旗本 |
| 江戸時代の家格・役割 | 羽林家。書道・神楽などを家業としたとされる | 幕府の儀礼・典礼などを担う高家 |
| 江戸時代の所領・支給 | 御蔵米30石とする系譜資料がある | 旗本としての家禄は2,000石とされる |
| 明治時代の身分 | 六角博通が1884年に子爵を授爵し、華族となる | 士族に編入された |
| 歴史を見分ける手掛かり | 園家、羽林家、六角博通、子爵 | 烏丸家、六角広賢、高家、六角広泰、士族 |
表のとおり、二つの六角家は同じ名字でも、成立の経緯や江戸時代の役割、明治時代の身分が異なります。なお、御蔵米30石は米による支給、2,000石は旗本の家禄を示す数字であり、両者は単純に同じ条件の経済指標として比較できるものではありません。
【歴史①】公家の六角家は園家から分かれ、子爵家へ
波多基維から六角益通へ
公家系の六角家は、藤原北家中御門流に属する園家の庶流です。公家の系譜をまとめた「公卿類別譜」の六角家の項では、波多基維を起点とする系統が記されています。基維は園基福の猶子となった人物で、実父は葉川基起とされています。
その後、基維の後継者である益通が家名を六角へ改めました。家譜に基づく記録では、改号は元禄13年2月6日(1700年3月26日)とされています。益通は初名を基親といい、園家から分かれた系統が六角家として定着するうえで重要な人物です。
この経緯から、公家系六角家の成立を考える際は、園家から分かれた系譜と、波多から六角への家名変更を分けて理解する必要があります。名字が六角になった時点と、その家の祖先が生まれた時点は同じではありません。
羽林家としての位置づけと江戸時代の暮らし
公家系六角家は羽林家に分類され、朝廷に仕える家として続きました。系譜資料には、書道や神楽を家業としたこと、江戸時代の支給が御蔵米30石だったことなどが記録されています。
ここで押さえたいのは、公家の家格と経済的な規模は必ずしも一致しないという点です。公家の家の格式は、単純な領地の広さだけで決まるものではありません。朝廷での家格、官職、儀礼上の位置づけなどが重要でした。
六角家の系譜には、益通、知通、光通、和通、能通らの名前が見られます。こうした歴代の人物を追うことで、六角家が江戸時代を通じて朝廷に仕えた公家の一つだったことが分かります。
1884年、六角博通が子爵に
公家系六角家の歴史における大きな転換点は、明治時代の華族制度です。系譜資料によれば、六角博通は1884年(明治17年)7月8日に子爵を授けられました。これにより、六角家は近代の華族制度における子爵家として位置づけられました。
華族制度は、明治2年(1869年)に始まり、明治17年(1884年)の華族令によって五爵制が整備されました。国立公文書館の華族制度に関する解説でも、この制度が1947年(昭和22年)まで続いたことが示されています。
ただし、子爵という爵位は江戸時代から続いた称号ではありません。公家としての歴史を持つ家が、明治期の新しい制度のもとで爵位を授けられたものです。したがって、「六角家の子爵家」という表現は、主としてこの公家系の家を指す際に用いられます。

【歴史②】高家の六角家は烏丸家から分かれ、幕府の儀礼を担った
祖先は公卿・歌人の烏丸光広
もう一つの六角家は、藤原北家日野流の烏丸家から分かれた系統です。烏丸家自体が日野家の流れをくむ公家であり、烏丸光広は江戸時代前期の公卿・歌人として知られています。
足利市の公式地域情報にある「今福村領主六角家」の解説では、烏丸光広の次男である広賢が六角氏の祖として紹介されています。広賢は正保4年(1647年)、本照院宮守澄法親王の関東下向に随行しました。系譜資料では、当初は桃園を称し、家を興すにあたって六角に改めたとされています。
ここで重要なのは、広賢が園家の公家系六角家の子孫として登場するわけではないことです。広賢の出自は烏丸家であり、高家系六角家は烏丸家の庶流として成立しました。
1689年に高家となり、幕府と朝廷の間をつないだ
高家系六角家は、元禄2年(1689年)に高家に列せられました。江戸幕府における高家は、単に由緒ある家柄を意味するだけでなく、幕府の儀礼や朝廷との関係において特別な役割を担う家々でした。
文化庁所管の文化財・芸能解説を掲載する文化デジタルライブラリーでは、高家について、勅使の接待や朝廷との取り次ぎ、幕府の儀式・典礼などを担った役職として説明しています。吉良家などが知られていますが、六角家もその一つでした。
高家の役割は、朝廷と幕府が並存していた時代の政治構造と深く関わっています。朝廷の権威を尊重しながら幕府が政治を運営するためには、儀礼や使者の応対、礼法に通じた家々の存在が必要でした。高家は、その制度を支える一角を担っていたのです。
六角広泰と幕末の高家旗本
幕末期の六角広泰は、弘化3年(1846年)に家督を継ぎ、嘉永元年(1849年)には奥高家となりました。幕末の幕臣を扱う「幕末幕臣動向」の記録では、広泰の家禄は2,000石とされ、慶応2年(1866年)11月に没したと記録されています。
また、足利市の地域史資料には、六角家が下野国の今福村など複数の村を領地としていたことが記されています。文久2年(1862年)には「六角騒動」と呼ばれる領内の騒動が起き、幕末から明治維新にかけて、領主と領民、家臣の関係が揺れ動きました。
この地域史は、六角家を単に幕府の儀礼を担った家としてだけでなく、領地を持つ旗本として捉える手掛かりにもなります。朝廷と幕府の間で儀礼を担う役割と、領地を統治する役割は、同じ家の歴史の中で併存していました。
明治維新後は華族ではなく士族に
高家系六角家の明治維新後の歩みは、公家系六角家とは異なります。幕府の崩壊後、旧高家の家々は新政府のもとで身分を再編されましたが、高家だったことだけで自動的に華族となったわけではありません。
六角家の高家系統は、明治初期に旧幕臣としての身分を整理され、士族に編入された家として記録されています。明治17年(1884年)の華族令で爵位制度が整えられた際も、公家系六角家のような子爵家にはなりませんでした。
つまり、同じ六角家という名称でも、一方は公家の家系を背景に子爵家となり、もう一方は幕府の高家という経歴を持ちながら士族となったのです。これは、明治政府が旧来の家柄を一律に処遇したのではなく、制度上の基準に基づいて身分を整理したことを示しています。
【歴史的背景】六角家の系統の違いから分かる日本の身分制度
藤原北家という共通点だけでは同じ家系にならない
二つの六角家に共通するのは、いずれも藤原氏北家につながる系統として整理される点です。しかし、藤原北家は長い歴史の中で多数の支流を生み出しました。中御門流、日野流などの系統があり、それぞれからさらに多くの公家や家が分かれています。
公家系六角家は中御門流の園家庶流、高家系六角家は日野流の烏丸家庶流です。両家の関係を正確に説明するには、「藤原北家」という大きな系譜上の共通点と、個別の家の成立経緯を区別する必要があります。
「高家」と「華族」は別の時代の制度
混同しやすいのが、高家と華族の違いです。高家は江戸幕府の制度であり、華族は明治政府が設けた近代の身分制度です。したがって、高家だった家が必ず子爵や男爵になったわけではありません。
国立公文書館の資料が示すとおり、華族制度は1947年(昭和22年)に廃止されました。公家系六角家が授けられた子爵という爵位も、現在の法制度における身分ではありません。同様に、士族も近代初期の歴史的な身分区分であり、現代の公的な身分を表すものではありません。
こうした制度の違いを踏まえると、「六角家は名門だったのか」「どちらが格式が高かったのか」という問いに、名字だけで答えることはできません。比較するなら、どの時代の制度を基準にするのかを先に決める必要があります。
戦国時代の近江六角氏とも区別が必要
さらに、日本史では戦国大名の近江六角氏も知られています。こちらは近江国を拠点とした佐々木氏流の六角氏で、園家庶流の公家系六角家や、烏丸家庶流の高家系六角家とは別の系統です。
戦国期の六角氏を扱う歴史研究書でも、佐々木氏を起点とする系図が示されています。そのため、戦国大名の六角氏、江戸時代の高家六角家、朝廷に仕えた公家系六角家を、名字だけを根拠に一つの家系へまとめるのは適切ではありません。
「六角家」という検索語で何を知りたいのかによって、確認すべき史料も変わります。公家・華族の歴史を知りたいなら公卿の系譜や華族制度の記録、高家の歴史を知りたいなら幕臣の系譜や役職記録、戦国時代の六角氏を知りたいなら近江の政治史や佐々木氏の系譜が手掛かりになります。

【プロの結論】六角家の系譜を読み解くための3つの判断基準
六角家の歴史を正確に把握するには、名字や「名門」という印象だけで判断せず、次の3点を順番に確認するのが有効です。
1. まず、祖先となる家を確認する
園家、中御門流と記されていれば、公家・華族の六角家を調べる手掛かりになります。一方、烏丸家、日野流、六角広賢、高家という記述があれば、幕府に仕えた六角家の系譜を確認する必要があります。系図では、実子・養子・猶子の区別も重要です。
2. 次に、その時代の身分と役割を確認する
羽林家、子爵、高家、士族という言葉は、同じ種類の肩書ではありません。羽林家は公家の家格、子爵は明治期の爵位、高家は江戸幕府の役職やそれを担う家、士族は明治期の身分区分です。これらを同列の序列として扱わず、制度が成立した時代と意味を確認しましょう。
3. 最後に、年代と一次史料に近い記録を照合する
家系を調べる際は、人物名だけでなく、家名変更の時期、官職への任命、授爵年月日などを確認することが重要です。公卿の系譜、幕府の役職記録、地域史資料、国立公文書館の制度資料を照合すれば、同姓の家や別系統の人物を取り違える可能性を減らせます。
とくに「六角家の子爵家は高家だったのか」「高家の六角家は華族だったのか」という疑問には、家系と制度を分けて答える必要があります。公家系六角家は1884年に子爵を授けられましたが、高家系六角家は士族に編入されました。この違いこそが、六角家の歴史を理解するうえでの核心です。
六角家に関するよくある質問(FAQ)
Q1:六角家の読み方は何ですか?
A1:一般に「ろっかくけ」と読みます。歴史上は複数の家系を指す場合があるため、園家や烏丸家など、前後の文脈を確認することが大切です。
Q2:六角家は公家ですか、武家ですか?
A2:どの六角家を指すかによって異なります。園家庶流の六角家は朝廷に仕えた公家で、明治時代には子爵家となりました。一方、烏丸家庶流の六角家は江戸幕府の高家旗本で、明治維新後は士族に編入されました。
Q3:六角家の子爵家と高家は同じ系譜ですか?
A3:同じ系譜ではありません。子爵家は藤原北家中御門流・園家庶流、高家は藤原北家日野流・烏丸家庶流です。いずれも藤原北家につながりますが、それぞれ別の家として成立しました。
Q4:六角家が子爵になったのはいつですか?
A4:公家系六角家の六角博通が、1884年(明治17年)7月8日に子爵を授けられました。これは明治時代の華族制度における爵位で、江戸時代の高家という役職とは別のものです。
Q5:高家の六角家が士族になったのはなぜですか?
A5:明治維新後に旧幕臣などの身分が再編されたためです。高家という江戸幕府の役職や家柄が、そのまま華族の爵位に移行したわけではありません。高家系六角家は士族に編入された家として記録されています。
Q6:戦国大名の六角氏も同じ家系ですか?
A6:別系統です。戦国時代の近江六角氏は佐々木氏流として知られ、園家庶流の公家系六角家や、烏丸家庶流の高家系六角家とは区別されます。
まとめ:六角家の歴史は「名字」ではなく「系譜と時代」で見分ける
六角家は「ろっかくけ」と読み、歴史上は一つの家系だけを指す名称ではありません。特に重要なのは、藤原北家中御門流・園家庶流の公家系六角家と、藤原北家日野流・烏丸家庶流の高家系六角家という二つの系統です。
前者は羽林家として朝廷に仕え、六角博通が1884年に子爵を授けられました。後者は江戸幕府の高家として儀礼を担い、明治維新後には士族に編入されました。さらに、戦国期の近江六角氏も別系統として存在します。
2026年に六角家の歴史や系譜を調べる場合も、最も確実な判断基準は、祖先となる家、成立した時代、そして当時の制度を照合することです。名字が同じであることと、同じ家系であることは別の問題です。この区別を押さえれば、六角家の公家・華族・高家・士族という一見複雑な歴史も、筋道を立てて理解できます。 (出典: 六角家(Yahoo!ニュース))